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文久3年8月20日(1863年10月2日)
【京】越前藩主父子の上京見合わせの達し
【長】幕府の長州糾問使中根一之丞、暗殺される

■春嶽再上京
【京】文久3年8月20日、伝奏は越前藩に対し、松平春嶽の逼塞がまだ許されていないことを理由に、藩主父子の上京を見合わせるよう指示しました。

在京越前藩では、前日、京都の情勢が穏やかではないので藩主父子が速やかに上京すべきかどうかを問い合わせていました。そうしたところ「越前守上京之儀は尤もに候得とも、父逼塞未免内上京候而は條理等不相立候に付可見合事」という指示が下ったのでした。

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春嶽は、この年の3月、政事総裁職の辞任が聞き入れられぬまま福井に帰国し(こちら)、逼塞処分を受けましたが、5月17日に幕府からは許されていました。しかし、朝廷は逼塞を許されたとは受け取っていないというのです。

春嶽が盟友と目する島津久光には、近衛前関白父子がすでに上京を促す書簡を認めていました(こちら)

朝廷の越前藩への醒めた反応の理由としては、朝廷内に強力なコネがなかった上に、春嶽の在京期間はわずか2ヶ月程で信頼関係を築くというわけにはいかなかったこともあると思います。春嶽の開国論が知れ渡っていたこと、挙藩上京計画への警戒感なども信頼しにくい理由だったと考えられるのでは?とも思います。

関連:■テーマ別「春嶽の総裁職辞任」「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「松平春嶽再上京」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.11.28)

■政変報告
【京】文久3年8月20日、薩摩藩奈良原幸五郎は、京都を出立して鹿児島へ向かいました。

何よりも政変の顛末を知らせるためです。書かれた日付は不明ですが、

*京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書(『玉里島津家史料』ニp425)
〜8月15日:主上が、大和国神武陵へ行幸等を仰せ出される(8/13)。そのほか、「暴論之三条」(=三条実美)は、「第一逆威逞」しく、上は主上に迫り、下は万民を驚かせ、「種々様々偽勅拵」え、此節に至っては、さらに「跋扈」が「甚敷」、この結果、浪人共は殺害・放火を心のままに行う。その上、今回の行幸について、御家・加州・細川・久留米・土佐・長州に対し、御高割で十万金の献金を来る二十七日までに上納せよとの朝命が下る(但し、8/15)。かつ、中川宮様へ西国鎮撫将軍の勅命が下り(8/9)、急々に下向される様、昼夜分けず、伝奏衆より御催促がある。その上、牧和泉(=真木和泉)・桂小五郎等も毎度参殿して、甚だ不届きな主張をし、宮様(=中川宮)の諸大夫・武田相模守へ浮田何某と申す者を遣し、「不似合」な振舞をするなど、あれといい、これといい

「実々神人怒るべきの時節到来の機会と見及び候間」、奈良原幸五郎(繁)、高崎左太郎(正風)、上田郡六、井上(石見)弥八郎らで談じて、「去る十日頃より頻りに諸藩の模様相伺い候処、会藩以ての外奮発致し居り候事情俄に探り得候間」、去る十五日(ママ)、同藩(三本木屋敷で)秋月悌二郎外三人へ高崎より申談じたところ、異論無く承諾し、殊の外喜んで、早速(秋月が黒谷の)肥後守(=松平容保)様へ申し上げたところ、「宮様(=中川宮)ニテ被為思召候はヽ、如何様共御尽力可被成トノ事」だった。

早速左太郎が宮様へ参殿して、細々切迫の事情申し上げ、さらに策略の次第も献言仕ったところ、「則、宮ニハ御決断相成、何レ一人ニテハ万事都合モ如何敷候間、前関白様(=近衛忠煕)ヘモ御参内有之有候可申上トノ御沙汰」をされた。

直に同人(=左太郎)が桜木御殿(=近衛別邸)へ参り、右の段を歎願したが、「兎(と)テモ此策ハ成就無覚束無、殊ニ一大事之儀也」と同意されず、あまつさえ、左大将様は書状で同意されぬ旨をお遣わしになり、「頓ト無頼片事機」になった。そうしたところ、宮様が「断然」と「御英断」なされた。

8月16日:(宮は)十六日の辰之刻に御参内、叡慮を伺った上で、すぐさま薩・会を御召しになる予定だった。(薩摩側は)間断なく応じる覚悟で、二本松屋敷の守衛人数にも達して早々に軍備を整え、今や遅しと待っていた。すると、意外にも、宮様が只今お帰りになったと聞き、取るものも取りあえず、左太郎が参殿し、事情を伺った。

武田相模守を通して承ったお言葉では、今朝(宮が)参内して叡慮を伺ったところ、(天皇は)「趣意ハ尤ニ候得共、只今ニ至リテハ、禁中一人モ其命ヲ伝候者無之候間、致方無之」と(中川宮の言上内容を)「御合点」にならず、是非なき仕合である、ということだった。(これを知った薩摩の)一同は頓と力を落した。第一、このことが世間に漏れては実に一大事であるので、大いに心配し、なるべく目立たぬよう、そろそろと人数を引き上げたが、既に世上には評判になったようだ。

8月17日:翌十七日四ツ過、会津藩の両人が参り、(会津藩士が言うには)只今宮へ参殿し、武田相模守から承ったのだが、主上から宮へ「御書」が下り、その内容は薩・会が申し合わせて早々に奮発せよだというので、飛ぶが如く走って参ったという。

(薩摩側は)昨日のこともあり、甚だ不審に思い、今一度(宮に)直に伺う方がよいだろうと打ち合わせ、またまた左太郎が参殿して、押して御目通りを願い、直にお伺いした。すると、(宮は)それは間違いである、(天皇からは)「会津・因州申合可為挙事」との御沙汰であり、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」ゆえ、とても事は成らぬと考え、案じているところだと言われた。

(これを聞いた)左太郎は大いに失望し、色々時勢を歎いた。宮も御同様で、一人も(天皇の)命を奉行する者がないとは、禁中は誠に嘆かわしい次第であると言われた。(左太郎は)二条様は如何でしょうか、あの御方は万事宮様へ御同意で、何事も宮の思召し次第だということは、兼ねてから承知しております、と申し上げた。(中川宮は)二条がいよいよその通りの存意で決心できれば、随分事が行われるだろう、何分、取り次ぎの人もなく、禁中総て暴論家ばかりで、それゆえ昨日も事が成らなかった第一(の原因で)ある、二条が(自分たちの計画に)はまってくれれば、いよいよ調うだろう、とのお言葉だった。

(そこで左太郎は)すぐさま退出して会津邸へ向かい、二条様へ右の段を言上するよう言い置き、(自分は)左大将(=近衛忠房)に罷り出て申し上げたところ、(忠房は)十六日(ママ)とは遥かに違い、「以之外御決心ニテ」、この上は、父子ともに参内して尽力いたそう、とのお言葉だと承った。有難さは筆紙に尽くしがたく、いよいよ会津藩と詳細に打ち合わせ、軍議が一決した。

8月18日:


関連:■テーマ別文久3「島津久光召命
参考:『玉里島津家史料』(2004.10.31)

■長州藩の動き
【長】文久3年8月20日、家老根来上総が山口到着し、大和行幸&藩主父子上京の勅を伝えました。

参考:『修訂防長回天史』(2004.10.31)

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